スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【マンガ】押見修造『惡の花』感想

惡の華(1) (少年マガジンKC)       惡の華(3) (少年マガジンコミックス)      惡の華(2) (少年マガジンコミックス)



押見修造『惡の華』の感想です。


ボードレールを愛する少年「春日」と、彼が密かに思いをよせる美少女「佐伯さん」、そして春日の弱みを握り契約をかわす「仲村さん」の三人が織りなす恋物語。

すべてのきっかけは春日が不意に佐伯さんの体操着を盗んでしまうことから始まる。それを見ていた仲村さんは春日を「変態クソムシ野郎」とののしり、支配下におく。仲村さんの言いなりになりつつも、佐伯さんとは「惡の花」をきっかけにしだいに親密になり、ピュアな恋愛関係へと発展していく。仲村さんは春日の「変態」を覚醒させるため、デート中も盗んだ体操着を服の下に身につけるよう命令する。

なんといっても春日を「クソカス野郎」と罵り追いつめていく仲村さんがたまらない。純粋で汚れなき聖なる存在としての佐伯さんが、実は「春日とせっくすしたいらしい」と言ってたと耳打ちする仲村さんは、春日の処女幻想を動揺させつつ新しい快楽幻想へと導いていく。

春日はすでに自分のなかの「変態」に気づきながらも、クラスや家庭からの抑圧のために、それを認めることができない。好きな女の子の体育着をぬすみ、しかもそれを着てしまうような男を佐伯さんが絶対に好きになるわけがない。しかし一方では、そんなくだらない価値観に縛られた学校や町の人間に嫌気がさしている。

あるとき春日の「変態」を知ってしまった佐伯さんは、それでも春日のことを受け入れる。しかし「正常」なはずの佐伯さんまでが自分の「変態」を受け入れることで、春日の秩序はいよいよ不安定なものとなる。佐伯さんの春日に対する愛はしだいに狂気がかってきて、もはや「普通」恋愛には戻れないようにも見える。

そんなとき仲村さんは、春日をつれて「くだらない」この町の外へでようと言い出す。仲村さんを後ろにのせて自転車をこぐ春日はうんざりしながらも、学校にも生活にも嫌気がさしている自分に気づく。仲村さんは救済者であると同時に、少年を破滅へと導いていく「悪い女」でもあるのだ。

この作品の面白さは、春日の弱みを握る仲村さんの意図が読めないところにある。本当は春日のことが好きなんじゃないかと推測すれば即座に「勘違いしてんなよゴミクズ野郎」と罵られる。佐伯さんとの恋を喜んでいるようでもあり、不満に思っているようにも見える。

ただ、春日も仲村さんも、そしておそらくは佐伯さんでさえも、このくだらない現実に嫌気がさしているのは確かで、春日が仲村さんに導かれるままに破滅の道を歩むのか、佐伯さんとともに正常な世界へとどまるのかというのがこれからの見所だろう。しかしそんな佐伯さんすらも、「正常な世界」から一歩出ようとしている。

いずれにしても仲村さんは近年のマンガでも希有な「悪い娘」であって、つくづく春日がうらやましい。

『日米同盟vs.中国・北朝鮮』

試験的に本の要約をしてみます。

元日経新聞の春原剛さんの『日米同盟vs.中国・北朝鮮』。去年の暮れに発売されたばかりの新しい本。

アメリカ共和党のアーミテージ元国務副長官、民主党ジョセフ・ナイ元国務次官補というアメリカの知日派の巨人二人を混じえた鼎談。アメリカには超党の知日派グループが存在し、二人はその重鎮。

日米同盟をめぐる濃密な話がたっぷり語られており、いていろいろと発見があった。二人が日米同盟のためにどれだけ尽力してきたかがわかると同時に、民主党の脱アメリカ政策によって日米同盟が危機に瀕していることが明らかになった。

日本のマスメディアではずいぶんと人気があるオバマ大統領「アジアで最も信頼するパートナー」は韓国と見ている。対北朝鮮用の「陸軍」中心の在韓米軍と、極東、中東を視野にいれた「海軍空軍」主体の日本では質の違いがあるとはいえ、日米同盟が急速に冷えていってることは間違いない。鳩山元首相は「大規模な軍事衝突が近い将来東アジアで発生するとは考えられない」と言っていたが、尖閣問題でようやく目が覚めたのではないだろうか。日本は日米同盟の重要性を再確認する必要がある、というのが春原さんの主張。非常にわかりやすい。

ジャック・アタリは「日本は将来、かならず軍事的な手段をとるだろう」と宣言している。日米同盟が冷えきったあと、中国・北朝鮮からの驚異にそなえるためには軍事的手段に走るしかないからだ。日米同盟は米軍を日本に駐留させることで「核の傘」となって周辺国に抑止力を働らかせている。「米軍にはでていってもらって、でも核の傘は残してください」というのは都合がよすぎる話ではないだろうか。中国の核弾頭はおよそ200発。日米同盟を解消すれば、孤立した日本に残された道はフランスのような自主独立路線しかない。フランスはすでに300発の核弾頭をもっている。中国と「対等」にわたりあうためには日本は「必ず」核武装するようになるという。そして「核のドミノ」は周辺諸国にも波及する(韓国はいちど核開発を計画している)。イランが核武装すれば、トルコ、サウジアラビア、へと核のドミノが波及していくように。

そして中国は現在でも核弾頭の数を増やしている。中国が核弾頭の「先制不使用」を宣言しているのは、単純に二次攻撃にそなえるほどの核を所有していないからだ。中国の核保有は「報復」用であって「先制攻撃」用ではない。これが核軍縮を進めるロシア(13000発)やアメリカ(9400発)に接近すれば、世界のパワーバランスが変わってくる。孤立した日本は第一次世界大戦後の日英同盟をなおざりにしたことで国際社会で孤立し、ドイツ、イタリアと組むことになったという歴史をもういちどかえりみるべきだろう。

いま、日本人の多くが懸念しているのは次のことだ。

「大阪のためにロサンジェルスを犠牲にするか?」

中国が大阪が核爆弾を落としたとき、アメリカはロスが核攻撃を受けるリスクを冒してまで報復行動にでてくれるのか。ナイ教授のこたえは「心配しなくてもわれわれは即座に報復にでる」だった。日本が有事の際にアメリカが「絶対に報復する」と諸外国に思わせることが「拡大抑止力」であり「核の傘」の本質なのだ。核兵器の有無ではない。それは両国の信頼関係によって成り立つものだ。尖閣問題のときにクリントン国務長官がすぐに「日本を支持する声明」を出した。これが信頼による「拡大抑止力」だ。日本の民主党がアメリカを外してアジアに近づくということはこの「抑止力」が希薄になるということを意味する。

そして何よりも重要なことは米国の「拡大抑止力」の信用を高めているのは「核兵器の数」ではなく、日本に駐留する米軍人の存在だということだ。日本人と生活を共にする米国人がいるからこそ「拡大抑止力」となる。換言してしまえは、沖縄に駐留する米海兵隊が「人質」となって「核の傘」の信頼性を担保しているのだ。日本がロシア、中国、北朝鮮から脅された場合に「米国が真剣に取り組む」という高度な政治メッセージがこめられている。

核廃絶をしきりに口にする人たちは(それはとても素晴らしいことなのだが)結果的に日本が諸外国の脅威にさらされ続け、やがて核武装に走るという可能性を考えているのだろうか。それは大戦期の日本の孤立主義の反復だ。それとも軍事大国と化した中国と組むのか。

これからの日米同盟について考えていくうえでとても参考になる名著だった。





日米同盟vs.中国・北朝鮮 (文春新書)

『ミッション・スクール』

佐藤八寿子さんの『ミッション・スクール』は戦後のミッション・スクールの変遷を歴史学的に分析した名著。これは戦後日本における「理想的な女性像」の歴史学と読むこともできる。

たとえば佐藤秀夫さんの『教育の文化史〈2〉学校の文化』を参考に、制服を例にとろう。

明治維新とともに、男子の軍服、文官礼服がいっせいに「洋服」に変わり、続いて郵便夫、警察などの職業服へとひろがっていった。洋服は和服にくらべてはるかに機能性が高い。ためにし着物で走ってみればわかる。この機能性にくわえて「旧幕藩体制」に対する明治政府の権威を象徴するという意味合いがあった。男子がいっせいに「洋服」化したというのは興味深い。

女学生があの有名な「女袴」姿で登場したのもこのころだ。AKBが桜の栞で着ていたものはそのまま明治女学生の制服である。いまでは卒業式の印象のほうが強い。ところが、明治政府はすぐにこの「女袴」を「奇異」な風俗として禁止してしまう。その後、着物になったり、女袴が復活したりをくりかえしながら現在の「洋服」といったかたちに落ち着いた。

戦時中、女性たちに求められたのは「伝統の固持」であり日本ナショナリズムの体現だった。たびたび女学生の制服が「着物」に戻されたのはこのためだ。これに対してミッションスクールが体現するのは「西洋」「近代」「教養」「都会」「キリスト教」であり、日本の「良妻賢母」とは対称的なイメージを生産しつづけた。

こうした「ミッション系」女学生に魅惑されたのは多くの知識人たちだった。夏目漱石『三四郎』の美穪子をイメージするとわかりやすい。教養があり知的で外国語に秀で、田舎からでてきた三四郎を「無邪気に」魅惑する都会的な女性。これは19世紀末に西洋から入ってきた「デカダンス」の影響がつよい。

「料理も作りたくないし家事も嫌いだし子供にも興味ない。ないより家庭に縛られたくない」という女性はとりわけ20世紀のアメリカの文学のなかでたびたびあらわれ男たちを魅惑してきた。『ティファニーで朝食を』のホリーゴライトリーや『ガープの世界』のガープの母親のように、放埒で男に媚びないタイプ女性というのはある意味とても魅力的なのだ。

対して良妻賢母とは家事、料理、育児に代表されるような女性像だ。これは労働が「家内制」から「工場制」へと移行するにつれて女性は家に、男性は外に働きにでるという、「近代家族」のモデルのなかで女性にあたえらた(押しつけられた?)役割ともいえる。パパは外で仕事、ママは家で家事、そしてボクは学校へ、という近代の核家族モデル。「だまって俺についてこい」的な父権的社会においては、こうした「男を立てる」貞節タイプの女性は親和性が高いといえる。

西洋化近代化した日本でどちらの女性が増えていったかは言うまでもないが、日本社会はまだまだ父権制社会だ。女の子は社会にでて初めて気付くことになる。なぜなら学校においては男女が「外見上」平等だからだ。

これは仮説だが、現代の日本社会において女性は、学生のうちには男を誘惑する「ミッションスクール」的な女性像をもとめられつつも、社会において(もしくは結婚してから)は伝統的な「良妻賢母」を求められているのではないだろうか(これはかなり無茶な注文だと思うが)

異性を見るとき「つき合うならこういう人」「結婚するならこういう人」という別個の基準で判断しているのはその証拠だろう。ただ、こうした問いかけをするのは男性というよりもむしろ「女性」のほうではないだろうかと思うのは私だけだろうか。





『web進化論』

福祉国家について最近よく考えてます。

ホリエモンと哲学者萱野氏による『kotoba 2011年 01月号』のベーシックインカムの議論がおもしろかった。

これまでの年金、医療などの保証をすべて廃止し、国民一律に「生きるために最低限のお金」を配るというもの。7万から8万くらいを毎月、赤ん坊からお年寄りまで平等に配る。テクノロジーの発達、途上国への工場の移転をかんがえれば先進国で仕事がなくなっていくのは当然のことで、労働力の安い途上国にどんどん企業を移転させて国内が空洞化するのも避けられないこと。だとしたら無理に労働を「発掘」する必要はなくて、ベーシックインカムを導入して「働きたいやつだけ働く」環境を生み出す。もう少し収入がほしければこんどは「最低賃金」に縛られない収入や、ネットの広告収入に頼ればいい。ホリエモンは一貫してこの理論に賛成。国民の税金を、厚生省など公務員の膨大な中間搾取を省いて行き渡らせることができる。

なによりも画期的なのは「働きたくなければ働くなくていい」という新しい概念。まるで古代ギリシアの自由市民のような発想だが、労働が「美徳」だというプロテスタント的なイデオロギー(つまり資本主義の基礎理念)に一石投じる話だとおもう。なによりも現代の非正規雇用、失業問題を考えれば「最低限の保証」すらされていない若者のにとっては天恵だろう。

ベーシックインカムは少々強引だが、新しい形の福祉はこれから必要になってくる。

最近読んだ梅田望夫さんの『ウェブ進化論』少しまえのベストセラーだったが、ブックオフで100円だったので購入。グーグルの登場でほんとうに世界が変わっていくんだと実感。

特に面白かったのはグーグル広告AdSenseによる富の再分配の話。ネットインフラが整備されれば、世界中のだれもがほとんど無料でウェブサイトを作成できるようになる。AdSenseの広告主はオークションで広告費を出すので、従来の広告代理店にたよらない低価格で、企業は広告がだせる。しかもネット広告の費用対効果はテレビの25倍。

つまり莫大な中間搾取によって肥えた「マスメディア」と「広告業界」をまったく介さず、「広告掲載者」と「広告主」がダイレクトにつながることで、これまでのテレビや新聞よりもはるかに安い値段で、しかも効率よく広告が打てるようになるということ。これはWin-to-Winの、つまり両者どちらにとってもメリットとなる考えだ。

では、なぜ「富の再分配」になるのか。

いままでは、ごくわずかな表現者だけが発言権を握っていた。たとえば日本で、発言する機会をもっている人はごく限られた一部のクリーエター層だった。梅田さんの表現をつかえば「10メートルの高さのビルの、いちばんうえの1ミリの層」ほどの人にだけあたえられた特権だった。むかし「クラスで一番面白かった奴」や「すごく頭のきれる先輩」はどこにいったのかというと、圧倒的なサイレント層に取り込まれてしまった。

ネット技術は、この一部のクリエーター層と、99.99%の受け手の間に新しいックリエイティブな層を生み出す。特権的なクリーエター集団に入るほとではないが、そのへんの一般人よりもはるかに「面白い」中間層。1億とはいかなくても、100万人や1000万人の層にむけたメディアがネットであり、そこにこそ未来がある。

グーグルAdSenseは英語圏に広がる。ネットには地域という概念が存在しない。そして広告主のほとんどは先進国にある。つまり、現実世界での経済格差がネット世界において解消されるので、先進国からの広告収益がそのまま途上国の広告掲載者に流れ込む。先進国にとっては微々たるものでも、彼らにとっては生活費以上のものになる。

これは「国家」という概念をこえて遍く富みを巡らせる素晴らしい考えだとおもう。

ただ、当然のことながらこれまで栄華を誇ってきた旧来的な企業は益々衰退していく。

『グーグルが日本を破壊する』も併せて読んでみたが、法外な広告費を請求する「広告代理店」や「テレビ業界」は今後、広告費を集められずに苦労することになる。広告費が集まらないとテレビ、新聞の内容は益々劣化する。大企業だけを広告主にしてきた「恐竜の首」企業が滅び(なくなるわけではない)中小企業と個人がダイレクトにどこまでも繋がっていく「ロングテール(長いしっぽ)」が主流になる。

両者の言い分は一致していて、つまりグーグルによって「世界がかわる」

今読んでるジャックアタリの『21世紀の歴史』に書いてあるように、将来的には「国家」の力が弱体化して「市場」が民主主義にとってかわる「超帝国」の時代が訪れる。民営化されたグローバルな「保険会社」がこれまで国家が担ってきた医療、教育、福祉サービスを提供し、人々は「遊牧民」となって世界をわたりあるく世界。

グーグルを見ていると決して夢物語ではないと思った。






参考文献


kotoba (コトバ) 2011年 01月号 [雑誌]


ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)


グーグルが日本を破壊する (PHP新書 518)


21世紀の歴史――未来の人類から見た世界

腐女子

昨今のサッカー日本代表のアジアカップで盛り上がる一方で「川島×内田」のカップリングが腐女子の間で大いに話題になったことは興味深い。

神聖なフィールドのうえに即座にセクシュアリズムを読み取ってしまう視線は、
ジェンダー論についてかんがえる上でも大きな示唆をあたえてくれる。

現在の「腐女子」もしくは「BL」の源流は1978年の少年愛ブームにある。

『鳴り響く性―日本のポピュラー音楽とジェンダー』の中で、室田尚子が指摘するように、

「24年組」と呼ばれる作家達によって、少女マンガの世界における少年愛は、1978年にはすっかり定着した。『イブの息子たち』

すこし以外かもしれないが、1970年代後半に「コミケ」の主流を占めていたのは「ロック歌手」を対象にした同人誌だった。T・レックス、デヴィッド・ボウイなど、グラムロックの退廃的な雰囲気や、ジミーペイジ、ロバートブラントを始めとする「ゲイカルチャー」を描いた同性愛パロディが数多く作られた。

室田の指摘で興味深いのは、こうしたマンガを受容する女の子たちはデヴィッド・ボウイに「男らしさ」ではなく「美しさ」を求めていたという。たしかに少女マンガの美少年達は、風になびく金色の髪、長いまつげ、細い首と、いずれも中性的な特徴をもっている。あわせてロック歌手は化粧、ネックレス、マスカラとますます「男らしさ」からかけ離れた存在だ。

「男らしさ」を感じさせない=「脱ジェンダー化された」対象こそが、読者である少女たちにとっては理想的な「男性」だった。これは興味深い指摘である。

上野千鶴子が『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』などでくりかえし論じるように、
そこには少女たちの「成熟への恐れ」が現れている。少女達にとって大人になることは、男性にとって「性的な客体」になることであり、子供を出産するための道具となることを意味する。彼女たちにとって美少年とは「処女喪失」や「妊娠」といった女性がこうむる性にまつわる不利益から逃れた「理想化された自己像」である。

それは「性的存在」になることへの恐れから生み出された「美しい」男性像であり、同時に理想的な女性像でもあったのだ。男性同性愛という「ファンタジー」のなかで、少女たちは恐れることなく「安心して」彼らを激しい性愛のなかに投げ込むことができる。そこには「性的客体」たる女性は始めから描かれていないのだ。

そもそも永山薫が『エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門』で指摘するように、マンガの中でのキャラクターに真の意味での性別はない。マンガと同性愛という二重に保護された場所で、少女達がファンタジーに耽溺することのできるのが「少年愛」だったのではないか。

ジョージ・L・モッセが『ナショナリズムとセクシュアリティ―市民道徳とナチズム 』で示すように、戦場における「男同士の絆」にホモセクシュアルを読み取ることは避けられないことだ。共に「国家のために」戦う男達が、男性的エロティシズムをまき散らしながら熱い友情で結ばれる。近代国民国家の理想像である「男らしさ」の理想像は「同性愛」と紙一重だった。

サッカー日本代表にホモセクシュアルを読み取ってしまう「腐女子」の思考はきわめて「正常」であるにも関わらず、彼女達みずからがその病的思考を揶揄するという態度は、やはり19世紀以降の「男女恋愛」がどれほどイデオロギーとして浸透しているかを示している。

いずれにしろ、やがて少女たちは自らが「性的存在」であることを受け入れ「大人」になっていく。その手前で留まり続ける存在、その成熟を拒絶する存在、それこそが少女なのだ。




参考文献


イブの息子たち (1) (白泉社文庫)


鳴り響く性―日本のポピュラー音楽とジェンダー


女ぎらい――ニッポンのミソジニー


エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門


ナショナリズムとセクシュアリティ―市民道徳とナチズム (パルマケイア叢書)

プロフィール

ちょんつん

Author:ちょんつん
Evangeline07をフォローしましょう

カテゴリ
最新コメント
最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。