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【日記】忠臣蔵「赤穂四十七士」とAKBについて

『忠臣蔵-意地の系譜』

佐藤忠男さんの『忠臣蔵ー意地の系譜』という本を読んだ。

300年も前から日本人がくりかえし形を変えて語り継いできた忠臣蔵物語。
これを「意地」という視点から論じた書物。
文章も簡易で論理も明白。なによりも面白い。

元禄十四年(1701)に江戸城内で浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野之(きらこうずけのすけ)に切り掛かる。理由は明確ではないが、物語では上司である吉良が浅野を虐めていたということになっている。しびれを切らした短気な浅野は、城内での無礼によって幕府から切腹を命じられ、彼の赤穂藩は取り潰しになる。家臣たちは失業する。翌年、赤穂の遺臣「47人」が吉良邸を襲撃し吉良を打ち取る。家臣たちは自首し、さらに翌年、幕府によって切腹を命じられる。

当時の人々はこの事件にずいぶんと衝撃を受けて、後代まで語り継ぐことになる。幕府はこれを匠に利用して忠臣蔵を「忠義」の物語に改竄してしまったが、実際には上司の失態によってみすみす失業した家臣たちに対する「同情」と、死を覚悟で討ち入りを決行した四十七士の「勇気」だった。忠義は封建制のなかでうまく利用されたあとづけ論理にすぎない。本来「人間がいかにして誇り高く名誉を重んじて生きるか」という武道哲学であったはずが、忠臣蔵以降の武士は「いかにして忠実な奴隷となるか」という思想に堕してしまった。しかし当時の人々が魅了されたのは決して「忠義」のものがたりではない。ではなにに魅了されたのか?その答えが「意地」である。


1963年にベトナムの僧侶たちが政府への抗議として焼身自殺を行った。また、2010年チュニジアでの民主化革命はおなじくひとりの青年の焼身自殺が発端だった。こうした"死の抗議"は「自分の正しさを証明したい」という根源的な衝動である。

例えば子供が親に怒られる。自分は間違っていないと信じているが、きちんと反論するだけの能力を子供は持ち合わせていない。「良い」と思っていた事を一方的に「悪い」と決めつけられたとき、子供は強情をはり、駄々をこねる。これが反抗の始まりであり、「意地」の始まりだ。全面的に自分を否定されたとき、たとえ一つでも自分が正しいことを証明するために「意地をはる」。日本にはこうした子供のダダに寛容な「甘え」の文化がある。そして日本の大衆文化のヒーローたちはみな「意地っ張り」だ。曲がった事が大嫌いで、短期で、自分の正しいと思うことに正直。これは日本に限らないが、とりわけ「甘え」文化のある日本では寛容なのだ。

さて、現代でも、強い権力によって差別を受け続ける人々がいる。彼らは権力者によって一方的に「間違っている」と決めつけられ、その反論の手段さえ奪われている。彼らがとる最後の手段が、自分の正しさを証明するための"死の抗議"なのだ。

こうした「意地」は誰にでも身に覚えがある感覚だろう。自分の存在が否定されて、反抗する手段すら剥奪されている時、なんとかして自分の正しさを立証したいと思う。相手を論破できれば良いのだが、たいていはその機会すら奪われていることが多い。四十七士は死を覚悟して、自分たちの正義を示すために意地を通した。それが人々の心を打ったということだ。

さらに「四十七人」で吉良邸に討ち入るという派手なパフォーマンスも、当時の人々を喜ばすのに申し分なかった。ただの「集団テロリズム」がこれほど美化されたのは、その視覚的な壮観さによるところが大きい。これが二人三人の討ち入りでは、ただの「異常な行動」だが、これほど大人数となるとそこに狂気ではなく理性が見出せる。戦前戦後の映画会社では「忠臣蔵」を作るというのは儀式的な意味をもっていた。つまり専属俳優の層が厚くなり、主役級スター級の役者を何人も並べることができるほど会社が大きくなったことの証しとして「忠臣蔵」が作成されていた。主役だけでなく、四十七人もの名のある役者がひとつの作品に出そろうというのはさぞや壮観だったろうが、やがてテレビの普及によって映画会社は衰退し、60年代以降はNHK大河ドラマに取って代わられることになる。現代のNHKドラマの豪華俳優陣を見ているとその感覚がわかると思う。

さて、わざわざ忠臣蔵を引き合いにだしたのは「赤穂四十七士」というのがどことなく「AKB48」に近いという単純な理由だけだったのだが、「忠臣蔵」が決して「忠義」の物語などではなく、自分たちの正しさを証明するための「意地」の物語であり、さらに「四十七士」という大人数のフルキャストで映画ファンたちを魅了してきた歴史的事実を鑑みると、あながち現代のAKB48と比較するのも的外れではないように思う。彼女たちのひたすら努力する姿には「意地」を感じるし(その目的が明白じゃないところもまた良い)なによりも大勢の少女たちがステージいっぱいに溢れかえる光景は壮観で、見るものを圧倒せずにはいない。この一人一人の物語を追うことができるのは、いくらでも物語を生産できる広大なネットのおかげなのだが、これはまた考えてみることにします。以上です。





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