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【アニメ】「魔法少女まどか☆マギカ」感想編

シャフトのオリジナルアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』

おなじみ新房監督のオリジナル作品ということでファンの期待も高く、
さらに『ひだまりスケッチ』の蒼樹うめ先生がキャラクター原案とまさにシャフトの総力を結集した作品。

若手声優の悠木碧を主人公「鹿目まどか」役に抜擢。
『ぱにぽにダッシュ』『ケメコデラックス』などでおなじみのベテラン斎藤千和さんは、
『化物語』の戦場ヶ原につづいてずいぶんと声のトーンを抑えた「暁美ほむら」役。
『ひだまり』から蒼樹先生とつながりの深い水橋かおりさんが「巴マミ」役。
ボーイッシュで少し心を病んだ「美樹さやか」は喜多村英梨。
むずかしい「キュゥべえ」の役所には『化物語』から起用の加藤英美里さん。
気の強い「佐倉杏子」には珍しく野中藍さん。
『魔法先生ネギま!?』以来の配役ではないだろうか。

若手起用がすすむ声優業界にしては珍しく
30代前後の実力派でがっちりと固めたキャスト陣。

新房監督の「魔法少女もの」ということで非常に期待度の高かった本作だが
まずはこれまでの「魔法少女もの」というジャンルをを振り返っておこう。

ある日とつぜん魔法少女となることを運命づけられた女の子が、この世の悪である魔女と戦う。
これがあらゆる魔法少女物語に共通するストーリーだ。

【ストーリー】

これをジェンダー論的構造として取り出してみると、魔女は大人の女性の具現化であり、大人になり切れていない少女と相対する構図になる。多くのアニメクリエーターが成人男性であることを考えると構図はよりはっきりとする。こうした図式はジブリ作品でも『もののけ姫』『未来少年コナン』『天空の城ラピュタ』などにも散見される。彼らにとって大人の世界は「悪」であり、なかでも大人の女性というのは最大の脅威である。かといってジブリが魔法少女ものかというとそうではなく、ひとつの要素として潜在しているにすぎない。この強かさがジブリの魅力でもある。

さて、『まどかマギカ』はこうした旧来の魔法少女的構図を一歩押し進めている。「第二次性徴期」とはっきり明示された魔法少女たちは、戦いの中で憎しみを蓄積しやがて魔女となることを運命づけられていく。彼女たちの最大の敵であるはずの魔女は、皮肉なことに魔法少女たちの成れの果てである。こうした「設定」が『まどか』を貫くひとつの理であり、従来の魔法少女ものがたりと一線を画すところだ。魔法少女の魂を肉体と分離させた「ソウルジェム」は戦いを経るうちに「濁り」やがて「グリーフシード」へと変化していく。「グリーフシード」は魔女を生む卵であり、美樹さやかは憎しみの果てに魔女となってしまう。
最終話で魔法少女になることを決意した鹿目まどかがのぞむのは「世界の理」であるこのシステムの変革だった。全宇宙、全時間軸に存在する魔女を自分の手で消し去ることを望んだまどかは、魔法少女を「概念」として宇宙に固定することで、世界を再編成しようとした。いうなれば魔法処女から魔女へという、この物語自体の「設定」を革新することであり、それは監督にだけ許された神的な特権でもある。新たな世界では「ソウルジェム」は「クリーフシード」へと変化することなく「ソウルジェム」の消失とともに魔法少女も消滅する。魔女になることなく、魔法少女という特権を失うという世界観へとシフトしたのだ。まどかは魔法少女を、魔女との対概念として位置づけるのではなく、上位概念として固定することであらゆる憎しみをその身に引き受けたのだ。
それは大人の女性になることを永久に拒絶しつづけるということではなく、魔法少女を「概念」として固定されることによって、一時的に少女が有することのできる「特権」へと変化したことの証明であり、その権利を消失することで再び普通の少女に戻ってていくことを意味する。

【キュゥべえ】

魔法少女と契約をかわし彼女たちの戦いを援護するというおなじみの役割を与えられた「キュゥべえ」は、可愛らしい小動物の姿をもって現れる。『カードキャプターさくら』の「ケルベロス(ケロちゃん)」同様、これもまた魔法少女物語ではお決まりのパターンだ。しかし『まどか』では少女たちを巧みに騙し、存在を踏みにじる完全なる他者として描写されている。魔法少女の契約時に代償とされる彼女たちの「死」という設定は『ぼくらの』へのオマージュであり、別次元からやってきて子供たちを翻弄する「キュゥべえ」は「コエムシ」そのものだ。『まどか』は主人公である鹿目まどかの契約が、ほむらの献身によって最終話までもちこされるところに新鮮みがある。

【タイムとラベルと多元宇宙論】

時間遡行と多元宇宙を組み合わせた物語は、もはやライトノベルの常套句で、ライプニッツを絡めた批評は腐るほど生産されてきた。「おなじ時間を繰り返している」ことに「主人公たちが徐々に気づいていく」という設定はここ数年でも『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレスサマー」や『ひぐらしの鳴くころに』などのヒット作においてすら何度も引用されてきた。どちらも無限に反復される「今」から、いかにして脱出するかということが主要なテーマになっている。『ハルヒ』にいたってはそのパロディである。
 かつては、ギャルゲームなどの「マルチエンディングストーリー」をアニメという単線的な時間軸な物語に取り込むというラディカルな試みや、登場人物たちが「自分たちの物語」に言及してしまうという南米のマジックリアリズム的手法を取り入れたことで、アニメ界のひとつの潮流となった。繰り返される「終わりなき日常」をなんとかして打破しようともがく主人公の姿は、とりわけ高度経済成長期以降の「成熟した近代」において逡巡する時代の雰囲気に親和性がある。こうしたありきたりな批評は社会学者によって食傷気味になるほどに語られてきたし、こうした手法自体はすでに1984年『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』で大々的に試みられた以降、多くの小説、アニメに引用されてきた。四半世紀を経てついに魔法少女物語にまで波及したと考えるのが正しいだろう。

【ぼくらの】

『軌道戦艦ナデシコ』以降、アニメはもはやセルフパロディとしてしか成立しなくなった。「何を見ても何かを思い出す Everything reminds you of something」というのが久しくアニメ業界を覆う病なのだが、背景にある膨大な過去のアニメコンテンツを想起させることで、ひとつの作品を重層化させていくという試みは、村上隆の「レイヤー論」にも通じるところがあって興味深い。つまり他のアニメを見ていれば見ているほどに、楽しみ方が重層化していくということだ。一時期文学批評の世界でいわれていた「良識ある読者」論にも通じる。一歩まちがえれば排他的エリート主義に陥ってしまうが、そもそもヲタクなんて「自称サブカルエリート」ばかりだからなにをいまさらと言う感じでもある。
『まどか』においてはとりわけ『ぼくらの』のオマージュがいたるところに散見され、コエムシを連想させるキュゥべえの存在や、まどかの部屋におかれた無数の椅子など、わかる人にはたまらない演出がなされている。多作品からの引用をあげていったら切りがないので割愛するが、前知識として『ぼくらの』『ひぐらし』くらいは見ておくとより一層たのしめる内容ではなかろうか。







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