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【コラム】ネオリベラリズムとAKB48

『日本を変える「知」』のなかで橋本努さんが「誰もネオリベラリズムを否定できない」という
非常にわかり易くネオリベを説明されている。

経済学者フリードマンが70年代アメリカの停滞を過剰な福祉政策にあったと批判し、
「小さな政府」を志向する制作のこと。

アメリカではレーガン、イギリスはサッチャー、日本では中曽根がネオリベ政策をとった。

ネオリベラリズムの定義とは
①市場経済のグローバル化によって生じた
先進諸国(民主主義と福祉国家の建設において歴史的に成功した諸国)の体制がもつ特徴の一つで
②結果としての所得不平等を容認し
③公的サービスの提供に貨幣原理や選択原理を導入しようとする。

加えてネオリベラリズムの副次的な面が六つあるのだが割愛。

社会学的に面白いのは「若者論」にひきつけて考察した場合だ。

ネオリベラリズムでは「②結果としての所得不平等を容認」する。
そのためにはスタートラインを「なるべく」平等にしなければいけない。
「成績は優秀なのに家が貧しくて大学に行けない」ような場合は、
奨学金などの最低限の福祉を充実させることで、
才能のある人間が努力によって成功できるような流動的な社会を目指す。

こう書くと聞こえは良いのだが、
ネオリベ体制では「がんばる人、志のある人は鍛えられていくが、
やる気のない人は別にやらなくてもいい」という二極化がおこる。
自立心があって努力を惜しまない人間にとっては理想的だが、
堕落する人間はどこまでも落ちていくという、
ちょっと恐い社会だ。

国家や学校に強制されないで「自由に競争」すること。
チャンスはだれにでも平等に与えられているのだから、
結果的に失敗して落ちぶれてもすべて「君の責任」ということになる。
環境を言い訳にできないから何が起きても「自己責任」になる。
これがネオリベラリズムの非情なところ。

教育界では70年代から「人間本来の主体性」を取り戻すという
とてもうさんくさい教育改革が続けられてきた。
過剰な受験戦争などに対する反発もあって、
誰かに強制されることなく、
各々が「主体的に」勉強することを目標にしてきた。
これが頂点に達した時の世代が「ゆとり世代」と呼ばれるだけで、
実は70年代からゆるやかにゆとり教育は続けられてきたのだ。

このネオリベラリズムの面白いところは、
子供に対して「無理して主体化しなくてもいいよ」とやる気をそぐような態度をとりつつ、
裏ではとにかく「エネルギッシュになにかやれ」「自己実現しろ」と暗黙に押しつけてくる
という「ダブルバインド(二重拘束/板挟み)」になっていることだ。

大人たちが子供にとる「不可解な態度」の理由がなんとなく分かってくるだろう。
具体的には何も言わないが、なんとなく言いたいことは分かるという空気。
「自由になんでもしていい」というのは、
「失敗したら全部自分の責任」ということだ。

これは現代の「自由恋愛」と「性」についても言えるのだが、これはそのうち書こう。

さて、現代では「夢にむかってひたすら努力する」というのが「美徳」として称揚される。
それも「誰かに言われたから」やるのではなく「自分の意志で」やるのというがポイントだ。

それゆえに同世代で活躍している甲子園球児やスポーツ選手、歌手などがキラキラと輝いてみえる。
「若年層」が活躍できる数少ない市場だともいえる。
同世代の活躍をみて興奮したり、情けない気持ちになったことのある人は多いと思う。

ここからAKB論を始めようかと思ったのだが、
言いたいことはおおよそ分かってもらえただろう。

「夢」というのは甘いが毒もある。
キケンな言葉だから慎重に扱わないといけない。

古谷実先生の最高傑作『シガテラ』の「おぎぼー」みたいに
平凡なサラリーマンになって社会のために「摩耗しつくす」ような人生を好んでもいいのだ。
仕事の合間に趣味のバイクを乗り回して、
好きな人と結婚してその人と子供を食わすためにまた「摩耗する」
人生の終わりに「オレは摩耗しつくしたぜ!」と叫ぶ。

そんな価値観があっても良いと思う。


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