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「グッド・グッド・ガール」とAKB48そして『タッチ』

毎週AKB48メンバーがウェディング姿で登場する『週刊朝日』の2011年3月18日号は仁藤萌乃特集だった。

結婚式は質素でいい、とインタビューに応えたあとで、仁藤はこんな自分の価値感を明かした。

「祖父を亡くしてから、私は『人のために生きたい』って思うようになりました。
旦那さんや子ども、愛する人たちに尽くして、その人たちを守る人生を歩みたいんです」


ボクは涙がでそうでした。

なんて良い子なんだと。

こんなことを言う子がAKBの中にいたのかと。

ボクは週刊朝日を握りしめて帰宅しました。



今日はAKBと「グッド・グッド・ガール」について書きます。



アメリカの文学批評家レスリーAフィードラーの『アメリカ小説における愛と死』という名著があるのだけど、
彼はマーク・トゥエインの『トム・ソーヤーの冒険』をおもしろい視点で分析している。

学校をさぼり、下品な言葉をつかい、こそ泥をやり、乱暴なことに憧れるトム・ソーヤー。
それに対して優等生で親の言うことをよくきく、弟のシド・ソーヤー。

このシドは、母親が彼にやってほしいと望んでいる(ふりをしている)ことをやる「グッド・グッド・ボーイ」で、対して「グッド・バッド・ボーイ」であるトムは母が「本当に」彼にやってほしいと思っていることをやる。つまり、嘘をついて、親の胸を少し痛ませ、それを許してもらう。

これをあだち充先生の『タッチ』にあてはめると分かりやすい。
タッちゃんが「グッド・バッド・ボーイ」カッちゃんが「グッド・グッド・ボーイ」だ。

上杉和也は成績も優秀、野球部のエースで、女子からも人気があり、学校の誇りだ。
対する上杉達也は怠け者で、だらしがなく、女にモテず、成績も悪く、学校をサボり、しかし男友達は多い。

和也は親がそうあって欲しいとおもう「手のかからない」子供だ。
いっぽう達也は「手のかかる」子供であって、いつでも誰かが叱りつけてやらないといけない。

お気づきかと思うが、あらゆる少年マンガの主人公は「グッド・バッド・ボーイ」である。愛すべき「バッド・ボーイ」こそがあらゆる少年マンガの基本にあると言っていい。「グッド・バッド・ボーイ」の「グッド」とはまさに「愛すべき」という意味であって、本当に「バッド・バッド」な人間はむしろ軽蔑されて誰からも相手にされない。「グッド・バッド・ボーイ」は不良ではあっても、人の道を踏み外すようなことはしないし、義理人情に厚く、正義感が強く、「根は良い奴」として描写されることが多い。これは『ろくでなしBLUES』の前田太尊や『スラムダンク』の桜木花道にも当てはまる。

00年代から「ヤンキー文化」再評価の動きがあるのだが、これは減少しつつある「グッド・バッド・ボーイ」への憧憬なのかもしれない。男の子というのは、いちどは「グッド・バッド・ボーイ」に憧れるものだ。その理由は諸説あるだろうが、柴田元幸先生の『アメリカ文学のレッスン』から引用させてもらえば、「いまここに在ることの絶対的不満」からくる「理由なき反抗」と呼べるかもしれない。反体制的なスタンス。彼らは「反抗するためだけに反抗している」のだ。

まあ、いずれにしろ、この「グッド・バッド・ボーイ」を愛するのが「グッド・グッド・ガール」だとフィードラーは指摘する。

「グッド・グッド・ガール」とはたとえば、誰からも愛され、成績優秀、スタイルが良く、社交的で、料理がうまく、マッサージがうまく、運動神経もよく、高校スポーツ界のアイドルで、他の男から求愛されても浮気せず、純粋で、親にとっても自慢の娘。ついでに「黒髪」。これは言うまでもなく「浅倉南」だ。

「グッド・バッド・ボーイ」を「矯正」する「正しい女」というのが、少年マンガの伝統的な女性像ではないだろうか。彼女にあたえられた役割はただ「グッド・バッド・ボーイ」の近くにいて「いちいち口を出してくる」ことにある。それがいっしょに育ってきた「幼馴染」だったらなおさら良い。

「浅倉南」のライバルになるとすれば、下級生で上杉達也を誘惑してくる「新田由加」だ。可愛くて、気が強く、お嬢さま育ちで、料理下手、活発で、積極的なアプローチ。そして茶髪にポニーテール。やはり彼女も「グッド・グッド・ガール」だ。ただ相対的に浅倉南のほうがより「グッド」である(モアベターとはあえて言わない)。そもそもあだち充作品に「グッド・バッド・ガール」がいるのだろうか?
あだち充に限らず「少年マンガ」に出てくる女の子はみなすべからく「グッド・グッド・ガール」ではないか。というのがボクの仮説だ。

これを単純に反転させてみて、少女マンガに良くある「ちょっとドジで平凡な主人公」が「グッド・バッド・ガール」で、出てくる男性は王子様のような「グッド・グッド・ボーイ」だと結論づけてしまうのは時期尚早だ。男女は非対称的なもので安易に反転できるものではないこれはそのうち考えよう。

それで仁藤の話に戻るわけだが、アイドルの原型は「グッド・グッド・ガール」にあるのではないかというのが今回2つ目の仮説。

AKB48というのは「清純派」だとか「体育会系」とかいわれるが、結局みんな良い子たちなのだ。
(ときどき強制解雇されてしまう「バッド・バッド・ガール」もいるけど)

『もしドラ』で前田敦子がつとめた役割はまさに「野球部のマネージャー」だった。
AKB派生ユニット「フレンチ・キス」のキャッチコピーは「親に紹介したい3人組」ではなかったか。
ここにひとつの「グッド・グッド・ガール」の原型がある気がするのだ。

しかし全員が「浅倉南」的な「グッド・グッド・ガール」なわけではなく、
「アイドルらしからぬ」愛すべき「バッド・ガール」もいる。この多様性がAKBの魅力だと思う。

「グッド・バッド・ガール」は自分たちでも公言しているように大島、大堀、秋元、宮澤あたりだろうか。
従来のアイドル像にあてはまらないキャラクターとして人気がある。これだけ人数がいて、みんなが「浅倉南」である必要はまったくないのだ。

『マジすか学園』の素晴らしさは全員が「グッド・バッド・ガール」を演じきるところに新鮮さがあった。
「親にはあまり紹介したくない」格好をした彼女たちはしかし、「愛すべき」バッド・ガールだった。

以前『桜からの手紙』の感想を動揺しながら書いたのだが、これはAKBとして「グッド・バッド・ガール」のかなりギリギリのラインだったと思う。

しかし結局のところ、本体としてのAKBは「グッド・グッド・ガール」に違いないのだ。
あらゆる少年マンガのヒロインを集めてきたような多様さがある。

そして彼女たちを応援するのは「グッド・バッド・ボーイ」たちだ。
彼女たちが「グッド」であればあるほど「グッド・バッド・ボーイ」は張り切ってしまう。

やはり「グッド・グッド・ガール」と相性がいいのは「グッド・バッド・ボーイ」に違いない。


そして『AKBINGO!』の司会が「バッドボーイズ」であるのは、おそらく偶然ではない。







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