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【コラム】食育

いのちの食べかた [DVD]


あるとき小学校の新任教師が子豚をかかええてクラスにあらわれる。興奮する子供たちにむかって教師は、この子豚をクラスみんなで育て、最後には食べようと提案する。子豚に「Pちゃん」と名付けられ、900日間にわたって飼育される。そして最後にこの「Pちゃん」を「食べる」か「食べないか」で論争になり、最後は食肉センターへ運ばれていく「Pちゃん」を見送る子供たちの姿で終わる。

これは実際に大阪・豊能町立東能勢小学校で行われた授業で、1993年にドキュメントにもなっている。ドキュメントを見たのはかなり以前なので記憶が曖昧なのだが、いろいろと議論の余地のある内容だった。「いのちの授業」を提唱する鳥山がシュタイナー教育の信奉者というだけで充分に胡散臭いのだが、それを真に受けた黒田恭史という新任教師が本当に豚を飼い始めてしまうという実話。

食卓にあがる豚肉やスーパーでパックにされている食肉が、実際に「生き物を殺す」という作業によって成立しているという「現実」を子供たちに見せるという目的で、しばしは食育問題がとりあげられる。

こうした「いのちと食」を扱う資料というのは多い。たとえば2005年に公開されたドキュメントいのちの食べかたでは、野菜から動物にいたるまであらゆる「食」を加工していく光景が、長回しのフィックスショットで次々に提示されていく。よけいな音楽も解説もなく、ただ淡々と牛が殺され、皮をはがされ、両腕をはさみで切り落とされていく。そこには「食を通じていのちについて考えさせよう」などという押し付けがましさが無く、人間が生きるために坦々と生産されてく「食」の現実がみえる。雌牛の腹から赤ん坊が取り出されるシーンも「生命の神秘」のような感動的な演出はいっさいなされない。

また、チベット仏教にある修行法のひとつとして、若い僧侶をつれて市場に下りていき、山羊が解体されていく過程を見るというものがある。自分の母親が輪廻によって山羊に転生し、それが「食」として加工されていく。慈悲心を育てるための修行法だが、「生」と「食」を直結させるチベットらしい発想だとおもう。

どちらの事例も「屠殺」は日常の一部であり、生きるために当然のこととして平然と見せているということだ。

これに比べて「いのちの授業」は決定的な過失を犯している。それは900日にもわたってブタを飼育したうえで、そのブタの処遇を子供たちの議論に委ねていることだ。たしかに「いのち」を巡って子供たちが意見を戦わせる姿は「見せ物」として大人たちの感動を呼ぶものかもしれない。しかし子豚を持ち込んだ当の新任教師が、事態を収集できずに子供たちに決断をまかせるのは正しい判断だろうか。

それは教師から生徒への「君たちはどうしたいのか?」という無言の問いかけであると同時に、子供から大人に向けて「先生は僕たちにどうして欲しいと思っているのか」という戸惑いとなって返えってくる。人間は「命を食べて生きているのだ」という「当然」の営みを保証してくれるはずの「象徴秩序」が崩壊し、教師も生徒といっしょに混沌の海に投げ込まれる。この授業をはじめた時の先生の頭のなかには、豚を飼うことで「いのちについて考えてもらおう」ということだけで、愛情を注がれて育ってしまったブタの処遇については「何も考えていない」というのが本音だろう。ブタにとってはいい迷惑である。本来ならば「当然」とされるはずの人間の営みが、900日にもわたって育てた「ペット」としてのブタを食べるか否かという「異常」な議論へと発展していく。見切り発車で子豚を飼い初めてしまったという印象が否めないし、なによりブタの命を教育の手段として軽く扱いすぎだろう。

「いのちの食べ方」もチベットの例も、どちらも人間が生きる為には生き物を殺さないといけないというのを「大前提」としている。しかしこの「いのちの授業」はその大前提すら疑問に問うことで、ジャイナ教徒のような迷路に陥ってしまった。ひとつだけ分かることは教師は「何も教えてくれない」ばかりか、生徒に「何をして欲しいのか」すら分からないということだ。

教師がとるべき姿勢は、食肉センターに赴き、ブタが食肉工場で平然と殺され、解体され、きれいなお肉になって出てくる様子を、逐一平然と見せることだったはずだ。それが「現実」であって現代の日常と直結する光景だからだ。こうした「食育」には賛成できるし、食肉加工に関わる人々にも敬意を表することができる。

しかし、クラスのマスコットとなった「Pちゃん」が食肉センターへ運ばれる姿を号泣しながら見送る子供たちという光景は「自然」からはほど遠い。「食」を通じて「いのち」を考える授業であったはずが「900日ものあいだ愛情をそそいで育てたペットをみんなで食べる」というきわめて「異常」な事態が発生するからだ。新任教師はもとよりいちばん困惑してるのは子供たちだろう。「いったいなんでこんなことになってしまったのか?」という状況論に対する回答は見つからず、そんな厄介な状態を引き起こした教師はなにもしてくれない(というより、何も考えていない)からだ。ボクがもし生徒だったら「オメーがなんとかしろや!」とこの教師の態度に憤ってしまうだろう。子供たちがブタの未来を真剣に議論している一方で、そんな白熱する子供の姿をみて楽しんでいる大人たちに腹が立ってしまうのだ。「いのちの授業」の名の下に子供たちが「朝まで生テレビ」のような見世物になって大人たちを楽しませているというのが、このブタをめぐる「食育」問題の要点だろう。

ちなみにこの「いのちの授業」はブタが食肉センターへ運ばれるところで終了し、本来見せるべき「屠殺」や「加工」は生徒たちに見せられることがない。つまり「食育」の授業としても成立していないのだ。

映画『ブタがいた教室』について触れたいのだが、新任教師役(妻夫木)の無責任さと子供たちの白熱するディベートが素晴らしい。脚本なしで子供たちに議論させたというが、その素直な発言の数々に心を動かされる大人もおおいのではないか。しかし、これはあくまでも映画という「見世物」だからこそ楽しめるのであって、現実にやらされたらたまらない。

おいしく食べられるはずのブタが、食育のための都合のいい「教材」として扱われたことに対する憤りの声は、残念ながらどこからも聞こえてこない。




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