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相互受動性とAKB48

AKB48でなによりも面白いのはメイキングだと思う。

カーテンの裏側にこそ「真実」があるのではないかと思ってしまうからだ。隠されているから覗きたいという本質的な欲求だと思う。

コンサート前の慌ただしさや緊張感、安堵の表情なんかを見ていると

誰よりもコンサートを楽しんでいるのは彼女たちだということが良くわかる。

観客は熱狂し盛り上がりつつも、頭のどこかでは今晩の夕飯のことなどをかんがえているものだ。

期待と不安で胸を躍らせつつも、メンバーと同じ緊張感などとても耐えられるものじゃない。

興奮しつつも、どこかで鷹揚にかまえているのが観客というものだ。

それが数カ月後に発売されるDVDを、コーラ片手に観賞しているともなれば、ステージとの温度差はすさまじいものになる。

にもかかわらずボクの代わりに誰かが楽しんでくれているだけで、ボクは充分に満足する。

これはいったいどうしてだろう?

ラカン派精神分析、マルクス主義イデオロギー批判、ヘーゲル流哲学の三界を渡り歩くスラヴォイ・ジジェクはこの問いに上質のヒントをあたえてくれる。

『ラカンはこう読め!』のなかで、ラカンのコロスについての論文を引用する。

コロスとはギリシア悲劇にでてくる合唱隊のことで、物語の進行にあわせてステージのうえで「観客」として泣いたり笑ったりする集団だ。蜷川幸雄の舞台『オレステス』なんかでも見ることが出来る。

この「コロス」がはたして観客の感情を「代弁」しているだけなのだろうかというラカンの問いかけに、ジジェクはこうこたえる。

最新流行の「相互能動性=双方向性(interactivity)」はインターネットでもおなじみだが、これを補完する相互受動性(interpassivity)という概念を考えてみてらどうか。電子メディアによって芸術作品の「受動的」消費がおわり、能動的に見世物に参加し、さらにはルール決定にすら参加するようになった。これは双方向性である。

しかしその一方で、対象そのものが私から私自身の「受動性」を奪い取り、その結果、対象そのものが私の代わりにショーを楽しみ、「楽しむという義務」を肩代わりしてくれる。たとえばテレビの録音された笑い声のように、無愛想な私の代わりにに笑ってくれる。または「泣き男」のように私の代わりに葬儀で涙をながしてくれる。能動性ならまだしも受動性まで奪われているにもかかわらず、私はそのことに充分に満足している。

ラカンに言わせれば「観客なんてその程度のものです。舞台の健康な状態が、あなたの感情の面倒をみてくれますコロスが面倒をみてくれます。コロスが感情的注釈をあたえてくれるのです」というわけだ。

AKBライブの中でもボクの大好きなのは毎年の『リクエストアワーセットリストベスト100』なのだが、AKBの全楽曲の中から投票による上位100曲が、4日間かけてランキング形式で発表されていく。ユニークなのはそのステージだ。あるメンバーが歌っている間、歌い終わったメンバーや待ち時間のメンバーたちが、ステージ背後の巨大なひな壇にすわり、観客としてライブを楽しむ。ステージのメンバーにとっては前だけでなく背後にも観客がいるような奇妙な格好になる。これまでアーティストの後ろにいるのはバックダンサーというのが相場だったが、なんと時間に余裕のあるメンバーが(AKBにおいては多数はなのだ)そのまま「観客」としてステージを後ろから見守る。これがとても新鮮だったわけだ。

それはボクの「受動性」が「奪い取られた」というよりも、後ろで踊るメンバーに「転移」したといえるかもしれない。斉藤環は『生き延びるためのラカン』のなかで転移について説明している。

「転移」とは、擬似的な感情だとわかっていても、相手の欲望が自分にとって「リアル」だと感じられること。濡れている子犬をみて思わず泣いてしまうような感情(ちょっと違うけど)。簡単にいうと、人と人のあいだでおこる「情報」の移動のことを転移という。

あんなに楽しそうに踊る彼女たちをみていたら「楽しまずにはいられない」ではないか。




参考文献



ラカンはこう読め!


オレステス [DVD]


生き延びるためのラカン (木星叢書)


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