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腐女子

昨今のサッカー日本代表のアジアカップで盛り上がる一方で「川島×内田」のカップリングが腐女子の間で大いに話題になったことは興味深い。

神聖なフィールドのうえに即座にセクシュアリズムを読み取ってしまう視線は、
ジェンダー論についてかんがえる上でも大きな示唆をあたえてくれる。

現在の「腐女子」もしくは「BL」の源流は1978年の少年愛ブームにある。

『鳴り響く性―日本のポピュラー音楽とジェンダー』の中で、室田尚子が指摘するように、

「24年組」と呼ばれる作家達によって、少女マンガの世界における少年愛は、1978年にはすっかり定着した。『イブの息子たち』

すこし以外かもしれないが、1970年代後半に「コミケ」の主流を占めていたのは「ロック歌手」を対象にした同人誌だった。T・レックス、デヴィッド・ボウイなど、グラムロックの退廃的な雰囲気や、ジミーペイジ、ロバートブラントを始めとする「ゲイカルチャー」を描いた同性愛パロディが数多く作られた。

室田の指摘で興味深いのは、こうしたマンガを受容する女の子たちはデヴィッド・ボウイに「男らしさ」ではなく「美しさ」を求めていたという。たしかに少女マンガの美少年達は、風になびく金色の髪、長いまつげ、細い首と、いずれも中性的な特徴をもっている。あわせてロック歌手は化粧、ネックレス、マスカラとますます「男らしさ」からかけ離れた存在だ。

「男らしさ」を感じさせない=「脱ジェンダー化された」対象こそが、読者である少女たちにとっては理想的な「男性」だった。これは興味深い指摘である。

上野千鶴子が『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』などでくりかえし論じるように、
そこには少女たちの「成熟への恐れ」が現れている。少女達にとって大人になることは、男性にとって「性的な客体」になることであり、子供を出産するための道具となることを意味する。彼女たちにとって美少年とは「処女喪失」や「妊娠」といった女性がこうむる性にまつわる不利益から逃れた「理想化された自己像」である。

それは「性的存在」になることへの恐れから生み出された「美しい」男性像であり、同時に理想的な女性像でもあったのだ。男性同性愛という「ファンタジー」のなかで、少女たちは恐れることなく「安心して」彼らを激しい性愛のなかに投げ込むことができる。そこには「性的客体」たる女性は始めから描かれていないのだ。

そもそも永山薫が『エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門』で指摘するように、マンガの中でのキャラクターに真の意味での性別はない。マンガと同性愛という二重に保護された場所で、少女達がファンタジーに耽溺することのできるのが「少年愛」だったのではないか。

ジョージ・L・モッセが『ナショナリズムとセクシュアリティ―市民道徳とナチズム 』で示すように、戦場における「男同士の絆」にホモセクシュアルを読み取ることは避けられないことだ。共に「国家のために」戦う男達が、男性的エロティシズムをまき散らしながら熱い友情で結ばれる。近代国民国家の理想像である「男らしさ」の理想像は「同性愛」と紙一重だった。

サッカー日本代表にホモセクシュアルを読み取ってしまう「腐女子」の思考はきわめて「正常」であるにも関わらず、彼女達みずからがその病的思考を揶揄するという態度は、やはり19世紀以降の「男女恋愛」がどれほどイデオロギーとして浸透しているかを示している。

いずれにしろ、やがて少女たちは自らが「性的存在」であることを受け入れ「大人」になっていく。その手前で留まり続ける存在、その成熟を拒絶する存在、それこそが少女なのだ。




参考文献


イブの息子たち (1) (白泉社文庫)


鳴り響く性―日本のポピュラー音楽とジェンダー


女ぎらい――ニッポンのミソジニー


エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門


ナショナリズムとセクシュアリティ―市民道徳とナチズム (パルマケイア叢書)

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