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『ミッション・スクール』

佐藤八寿子さんの『ミッション・スクール』は戦後のミッション・スクールの変遷を歴史学的に分析した名著。これは戦後日本における「理想的な女性像」の歴史学と読むこともできる。

たとえば佐藤秀夫さんの『教育の文化史〈2〉学校の文化』を参考に、制服を例にとろう。

明治維新とともに、男子の軍服、文官礼服がいっせいに「洋服」に変わり、続いて郵便夫、警察などの職業服へとひろがっていった。洋服は和服にくらべてはるかに機能性が高い。ためにし着物で走ってみればわかる。この機能性にくわえて「旧幕藩体制」に対する明治政府の権威を象徴するという意味合いがあった。男子がいっせいに「洋服」化したというのは興味深い。

女学生があの有名な「女袴」姿で登場したのもこのころだ。AKBが桜の栞で着ていたものはそのまま明治女学生の制服である。いまでは卒業式の印象のほうが強い。ところが、明治政府はすぐにこの「女袴」を「奇異」な風俗として禁止してしまう。その後、着物になったり、女袴が復活したりをくりかえしながら現在の「洋服」といったかたちに落ち着いた。

戦時中、女性たちに求められたのは「伝統の固持」であり日本ナショナリズムの体現だった。たびたび女学生の制服が「着物」に戻されたのはこのためだ。これに対してミッションスクールが体現するのは「西洋」「近代」「教養」「都会」「キリスト教」であり、日本の「良妻賢母」とは対称的なイメージを生産しつづけた。

こうした「ミッション系」女学生に魅惑されたのは多くの知識人たちだった。夏目漱石『三四郎』の美穪子をイメージするとわかりやすい。教養があり知的で外国語に秀で、田舎からでてきた三四郎を「無邪気に」魅惑する都会的な女性。これは19世紀末に西洋から入ってきた「デカダンス」の影響がつよい。

「料理も作りたくないし家事も嫌いだし子供にも興味ない。ないより家庭に縛られたくない」という女性はとりわけ20世紀のアメリカの文学のなかでたびたびあらわれ男たちを魅惑してきた。『ティファニーで朝食を』のホリーゴライトリーや『ガープの世界』のガープの母親のように、放埒で男に媚びないタイプ女性というのはある意味とても魅力的なのだ。

対して良妻賢母とは家事、料理、育児に代表されるような女性像だ。これは労働が「家内制」から「工場制」へと移行するにつれて女性は家に、男性は外に働きにでるという、「近代家族」のモデルのなかで女性にあたえらた(押しつけられた?)役割ともいえる。パパは外で仕事、ママは家で家事、そしてボクは学校へ、という近代の核家族モデル。「だまって俺についてこい」的な父権的社会においては、こうした「男を立てる」貞節タイプの女性は親和性が高いといえる。

西洋化近代化した日本でどちらの女性が増えていったかは言うまでもないが、日本社会はまだまだ父権制社会だ。女の子は社会にでて初めて気付くことになる。なぜなら学校においては男女が「外見上」平等だからだ。

これは仮説だが、現代の日本社会において女性は、学生のうちには男を誘惑する「ミッションスクール」的な女性像をもとめられつつも、社会において(もしくは結婚してから)は伝統的な「良妻賢母」を求められているのではないだろうか(これはかなり無茶な注文だと思うが)

異性を見るとき「つき合うならこういう人」「結婚するならこういう人」という別個の基準で判断しているのはその証拠だろう。ただ、こうした問いかけをするのは男性というよりもむしろ「女性」のほうではないだろうかと思うのは私だけだろうか。





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