スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

論文再アップロード

2011年度の修士論文『現代アイドル論におけるAKB48』のデザインをかえて、
2013年版序文を添えて再アップロードしました。

https://docs.google.com/file/d/0B2hKtRUCDHYONTBpeUg5NUNfSzQ/edit?usp=sharing
スポンサーサイト

総選挙2013総括 「笑う」AKB

もうAKBからずいぶん離れた身ですがSKEオタの友人からいろいろ話を聞いていたので、
今年の総選挙についての私的な感想を少し書いてみようとおもいます。


2012年初頭の米平事件あたりからAKBの雰囲気は大きく変わった。
離れていくファンと新規参入のファン、つまりファンの新陳代謝が活発になった。
人々が甲子園球児に「期待」するようにAKBメンバーに期待していたひたむきさや謙虚さ、友情や信頼というものが、
この時期を境に(ファンによってはずっと以前から)、欺瞞や偽善、裏切りに変わった。
「夢のためにひたむきに努力する」というコンセプトの少女たちと、
それを応援して楽しむファンという構図がこうして破壊された。
「ひたむきさ」「謙虚さ」「純粋さ」はももクロをはじめさくら学院などにひきつがれ、
かつてのファンもそうして大移動していった。
AKBメンバーたちはかつての自分たちを嘲笑するように次々にスキャンダルを引き起こしたが、
不思議なあことに新しいファンはむしろそれをホットニュースとして大騒ぎし楽しんでいるように見えた。
現在のAKBファンは「ひたむきに努力する彼女たちの姿に感動する」とは決して言わない。
いまそれを真顔でいうのはモノノフだ。
いまのAKBメンバーは「ひたむきに努力すること」を笑い、「謙虚さ」を笑い、「ファンとの絆」を笑い、「純粋さ」を笑う。
つまり今のAKBは初期のAKBのコンセプトを、
パロディとして笑い飛ばすようになった。
それは彼女たちがもはやテレビにおけるバラエティタレントにすぎないことを意味している。
初期のメンバーが持っていたようなひたむきさ、謙虚さは、
テレビの前の安価な笑いに変えられた。
東京ドーム公演を終えたAKBメンバーたちは、
テレビで笑いを取るのに必死だ。
バラエティで人気を博すのはしゃべりの巧みさと他人の嘲笑である。
今年の総選挙の第一位は見事にそれを象徴している。
昨年の4位からすでにその兆候はあった。
番狂わせではなく当然の結果だろう。
彼女の存在は初期のAKBコンセプトを嘲笑し、
ファンもまたそれを選んだ。
多くの新しいファンは「ひたむきさ」などではなく、
「きれいごと」をパロディとして嘲笑するような存在を求めている。

以前にも書いたがアイドル冬の時代がなぜ訪れたのか。
諸説あるが、それまで憧れの存在だったアイドルがおニャン子クラブによってずっと身近なものとなり、
ずぶの素人がテレビの中で簡単にアイドルに変わってく姿をそれまでのアイドルのパロディとすることで、
アイドルであることもアイドルを応援することも「かっこわるい」ものになっていった。
これがひとつ説得力のある説明だろう。
「なに本気でアイドルなんか応援しちゃってるの?」
AKBというアイドル自身がこのようにアイドルを嘲笑するステージに入ったとき、
80年代後期のアイドルパロディからアイドル冬の時代という過程を繰り返すことになる。
ひとつ大きな違いがあるとすれば、
当時に比べて、ファンは本気で応援するに値するアイドルに自由に移行することができることだろう。
マスメディアのアイドルが縮小して、
また90年代のようなオタクのためのアイドルに戻っていくのかもしれない。

アイドルにかつての「ひたむきさ」を求めるファンとそれに答えるももクロをはじめとするアイドルたち。
もはやそうした「純粋アイドル」であることを自己否定し、
アイドルをパロディとして高らかに嘲笑する存在としての新生AKB48として生まれ変わるのか。
現在のアイドルシーンを見る上で非常に象徴的な総選挙でした。


付け加えれば、
AKBからさくら学院に移行した理由は失望や浮気心というものではなく。
単純に私の期待にAKBが答えられなくなっていたということでしょう。
ももクロファンがあれほど自信満々に「彼女たちの一生懸命がんばる姿に感動する」と言えるのに対して、
いまのAKBファンがはたしてそんな台詞を吐けるでしょうか?
アイドルにはファンが胸を張って応援できるようなアイドルでいてほしいものです。

アイドルの「近さ」を巡る論考

アイドルの「近さ」を巡る論考


アイドルは「近く」なったといわれる。本当にそうだろうか。
確かに握手会や新興アイドル/地方アイドルの乱立によって、物理的にアイドルとファンの距離は近くなった。握手会をはじめとする「接触」は文字通りアイドルとファンが手の皮膚を接したゼロ距離を意味するし、小規模のライブハウスはステージまでの距離が極端に近い。最近では積極的にアイドルが客席にダイブし神輿のように担ぐと聞いている。これ以上距離が縮まれば、もはやゼロがマイナスになってしまうのではないか。これは性的な意味ではない。たしかにこうしてみるとアイドルとファンの距離は「近く」なったかに見える。しかし、それだけをもってアイドルの近接性が増したとはいえない。

映画からテレビへと娯楽の場が移行していくなかで、テレビは視聴者に3つの錯覚を与えた。空間、時間、一対一幻想である。1920年代に映画とラジオが広く普及し、さらにテレビメディアが登場すると、こうしたメディアが人々の心に引き起こした反応はマクニールがいうように「ふだん人々が面とむかって接触するときのそれと似たもの」であった。つまり、遠く離れた場所で録音された映像をあたかも至近距離にいるかのように錯覚し、それがリアルタイムであるかのように感じられる。さらに視聴者がテレビに対するとき、それがブロードキャストであり数万人もの人々がが同時視聴していることを忘れ、自分と一対一で対面しているかのように錯覚する。テレビの登場は人類にかつてない新鮮な体験を与えたのである。国民が豊かになり、テレビが爆発的に普及し、やがて各部屋にテレビが一台ずつ置かれ、さらにVHSの普及によっていつでも好きなときに動画が再生できるようになると、こうした錯覚は強化された。「消費の時代」とよばれた80年代の日本がそうである。
テレビのなかで毎日お茶の間に現れる人々は、こうして視聴者にとって限りなく「近い」ものになった。アイドルとは何よりもこの「近さ」を感じさせる存在である。マスメディアでありながら、視聴者にかつてない「近さ」を錯覚させる。(「アイドル領域」の記事のなかに80年代のアイドルはすでに充分すぎるほど「近い」存在であったことを書いているものがあった。手元に資料がないので、日本にもどってから引用しよう)

テレビメディアによって視聴者にもたらされる錯覚を一言で表すなら「親近感」である。頻繁にメディアに登場し、笑いを誘うような仕草や、プライベートな会話によって、こうした親近感が育まれる。そして市川考一の言うように、アイドルとはなによりも「親近感」をもたらす存在だった。しかし、前述したように、この親近感は「錯覚」なのである。なぜか?
当然ながらテレビに出ている芸能人に対し、我々は紛れもない他人であり、この両者の間には埋まらない溝がある。しかしあたかも今、目の前に、自分だけのために出現しているかのような錯覚を引き起こす。そのため、道端で偶然出会った芸能人に対して、一般人があたかも親しい友人のようになれなれしく接するという悲劇が起こる。しかし芸能人にとって、視聴者は赤の他人である。メディアによってのみアイドルに接しているかぎり、こうした現実は露見することなく、こちらがわの一方的な親近感によってすべてが多い尽くされる。毎週楽しみに聴いているラジオのようなもので、そこには安定した関係が築かれている。メディアがブログやメールに変化しても同様である。物理的には一緒に暮らす親兄弟のほうがはるかに「近い」が、赤の他人であるアイドルに対してより「近さ」を感じてしまう。毎日テレビ、ラジオ、ブログ、モバメによってファンに情報を送り続ける彼女たちは、ファンにこの「近さ」という錯覚をもたらす。この親近感がアイドルのひとつの大きな特徴である。

こうした「親近感」が不意にゆらぐ瞬間がある。それはまさに「親近感」という錯覚が露呈する瞬間において、つまりファンがアイドルに物理的に「近づく」瞬間である。皮肉なことに、物理的にアイドルに「近づく」ことによって、それまで抱いていた一方的な親近感が動揺し、「遠さ」を意識することがある。かつてのテレビアイドルがファンと適度な距離を保ち、こうした錯覚を意識させない「近い」存在であったならば、現代アイドルは物理的な近さによって現実世界の「遠さ」を自覚させる。

この意味において、アイドルとは近づくほど「遠く」なり、離れるほど「近く」なるという厄介な存在であるといえる。

現代アイドルに象徴的な握手会は、ファンにとってアイドルとの間の「距離」を意識させる場である。自分が彼女たちの情報を一方的に所有し、数ヶ月から数年、毎日のように接し続けているのに対し、彼女たちにとって自分は完全に赤の他人である。さらに自分よりも親密にアイドルと接するファンとの比較によって、こうした「距離」はより一層明確に知覚される。また、前述したように、ファンによっては自分の錯覚にすら気づかず、あたかも顔見知りのクラスメイトに接するかのように初対面のアイドルに非礼な行動をとってしまうことがある(握手会でよく報告される)。また、それまでメディアで一方的に抱いていた親近感やイメージが、現実に彼女と対面することで打ち崩される。
握手会やライブの意義は、メディアにおける「親近感」という「錯覚」をうまく解消し、現実のそれとうまく結びつける場を提供することにあり、実際にアイドルと対面するなかで、メディアでの錯覚を微調整していく。個人的な過去の体験で恐縮だが、かつてももクロDVDなどで盛り上がっていた自分が、実際のライブに参戦することで彼女たちとの言いようのない距離を感じ、また他のファンとの距離も同時に感じ、自分もまた多くのファンの1人にすぎないのだと実感し、やはり家でDVDを見るだけで充分だなという気持ちになった。これもまライブという物理的な「近さ」のなかで心理的な「遠さ」を自覚してしまった一例だろう(ちなみに著者はモノノフではない)。
いわゆるアイドルが「売れ」て、テレビで見ない日はない、という段階にまで達すると、こうした「親近感」という錯覚が常態化して、いわゆる「人気者」になる。ただ著者のようにテレビを持たない/まったく見ない人間にとっては、彼女たちは遠く離れてしまった存在である。いわゆる在宅オタとよばれる人々、ファンでありながらライブや握手会にほとんど興味を示さない人々は、アイドルとの距離をとることによって精神的な「近さ」を保っているように見える。

現代のアイドルはネットの普及によって、従来のようにマスメディアに頼る必要がない。地下アイドル、地方アイドルなど、マスメディアへの露出が少ないアイドルにとって、毎日視聴者の眼にふれることで親近感を抱いてもらうことは不可能である。しかし、多くの新興アイドルがUSTREAMなどによる動画配信、ファンの携帯電話に直接アイドルからメールが配信されるサービス(もちろん有料の一斉送信メールであるが、一日に数回、まるで友人にメールするような口調でメッセージや写真を送ってくる)、個人ブログ、Twitterなどを活用して情報を発信している。もはやテレビや雑誌といった旧来メディアを介することなく、しかも旧来メディアよりもはるかに頻繁かつ親密にファンにメッセージを送ることで、親近感という錯覚を与え続けることができる。たとえこうして得られた親近感が錯覚だとしても、互いに顔見知りになり、会話する中で知己の間柄になったとすれば、その親密感はもはやただの錯覚として切り捨てることは難しくなる。(ここにはアイドルとファンという特殊な関係性の中でだけ成立する「親密さ」というもうひとつの重大な「錯覚」が潜んでいる。これはまた考察する)。いずれにしても、小規模アイドルにおいては、メディアによって抱いた親密性という錯覚を現実の場で、まさに現場において、リアルなものへ折り合いをつけていく。

アイドルがやがて現場を離れマスメディアで活躍するようになる。ファンによっては、失われた物理的な「近さ」を、他のアイドル現場によって回復するか、そのままマスメディアが提供する「近さ」という錯覚へと回帰していく。しかし多くの場合には、現実の距離感を把握してしまったあとで偽りの近さへと戻ることは難しく、他の現場へと回遊していく事例が多いのではないか。錯覚は気づいてしまえばもはや錯覚ではない。

さいごに。メディアの発達によって、人々は地理的に離れながらコミュニケーションを取れるようになったかに見えたが、現実には反対に、メディアが発達するほど人々が物理的にコミュニケーションをとる必要性が増えているという皮肉を、エドワード・グレイザーは都市における近接性を例に挙げて論じている。つまり現在までのところ、いくらネットメディアが優れているとはいえ、実際に一対一でコミュニケーションすることのメリットは大きいということだ。メディアによってアイドルを知れば、彼女たちと物理的に近づきたい、ライブや握手会に行ってみたいと思うのは道理であるし、現場に赴くことではるかに多くの情報を知ることができる。しかし、たとえば自分の好んでいたアイドルの方向性が変わり、多くのファンがつき、大規模コンサートを挙行し、物理的にも心理的にも「遠く」く感じるようになれば、やがてそのアイドルから離れ、居心地のよい距離をもとめてさまよう。こうしてファンは距離に遊ぶのである。


市川考一 『人気者の社会心理学』学陽書房 2002
ウィリアム・H・マクニール 『世界史』 中公文庫 2008 p340
エドワード・グレイザー『都市は人類最高の発明である』 エヌティティ出版 2012

上海

上海から久々のブログ更新です。

早いもので修論執筆から10ヶ月近く経とうとしています。
ネットにアップしたところいろんな方から反響を頂きまして、
改めて東大でこの論文を執筆できてよかったと思ってます。
手前味噌かもしれませんが、
現代「アイドル」をジェンダー論的な視点から考察し整理した最初の論文になったと思います。
まあ、正式な手順を踏んだ学術論文ではなく、
いち学生の手による修士論文ですのでそれ以上のものは求められません。
書籍にでもなれば別ですが。
いずれにしても、
これまで納得のいくアイドル論がなかった中で、
自分の手でこうした論文を執筆できたことは非常に喜ばしく思っています。

皮肉なことに、
論文を提出したことでようやく現場に復帰する時間ができまして、
2012年前期はこれまで以上に多様なアイドルの現場を眼にすることができました。
チームH発足前のHKT48やLinQの現場に友人たちと博多まで足を運んだりと、
充実したオタ活になりました。

学術論文にはなによりも客観性が求められますので、
私自身の推しメンや特定のグループへの主観的な言及は避けてきましたが、
プライベートではそうした遠慮もなく、
興味のある現場に思う存分通うことができました。
しず風&絆、BiS、さくら学院といった魅力的なアイドルを堪能し、
さらにはこれまでなかなか機会がなかったハロプロ現場も味わうことができました。

さて、その一方でAKB48グループへの失望や落胆が非常に大きくなりまして、
もはやファンであることが難しい状態になりました。
メンバーを嫌いになったわけでも見捨てたわけでもありませんが、
はたして今のAKBが応援するに価値のあるアイドルなのか?
いろいろとアイドル現場を回っていくなかで、
ほんとうに「正しいもの」とは何かを考えるようになりました。
まさに論文でも触れたように、
私もまた他の多くのアイドルオタのように古い現場を完全に離れ、
新たな現場へと回遊することに決めたのです。
もっともコンサートチケットすら取ることができず、
かなり以前から現場からは遠のいていたのですが。

ファンではなくなりましたが現代アイドルのひとつの重要な到達点として、
これからも冷静な視線で追い続けていくつもりです。
そのうちAKBの現状についても書きたいことろです。

論文では他のアイドルについて論じることもあまりできなかったので、
そちらもいずれまたまとまった文章にしたいところです。
やはりまずはももクロでしょうか。
ずっと書けませでしたが、わたくし桃オタです。

さてさて、そうは言いましても、
私8月から上海に暮らしておりましてしばらく日本の土は踏むことができません。
すべてのアイドル現場から完全に遠のいてしまっているというのが現状です。
帰国する時期にあわせて現場に足を運びたいと思います。

来春発足するというSNH48を見に行く機会があれば、
また更新しようと思います。

それではまた。

【レポ】13期研究生『RESET』公演 2012・4・29

13期生『RESET』公演2012・4・29の13期生公演。

2月「風吹き」全握でのムチャ振り企画から3ヶ月足らず。

【レポ】「全握13期ムチャ振り企画」
http://tokyo48.blog.fc2.com/blog-entry-183.html


ようやく劇場で見ることができた。

明らかに12期以前の研究生とは待遇の異なる13期生。
それは最後に挨拶をした岡田の「13期には、いまチャンスの波が来ている」という言葉にもよく表れている。
寡黙努力しながらじっと機を伺っているような「チャンスの順番」というAKBお決まりのフレーズではなく、
千載一遇の「波」を感じ取って、それに全力で乗っていこうという気概が感じられた。
「その中でも私がいちばん目立って行きたい」という岡田の言葉には、強い意思があった。

公演だが、
当然ながらチームKの『RESET』とは完全に別物である。
全体曲では、冒頭からスローモーションのように動きが遅くキレがないような印象を受けた。
振り付けもところどころバラバラで、公演としての完成度は低い。
さらに曲によって表情を自在に変えるだけの表現力がまったく身についていない。
現在のHKT劇場公演が1000円であることを考えれば、
この公演に対して2000円は理不尽であろう。

しかしそれでも、
『RESET』という非常に難しいセットリストを、
駆け出しの研究生が食らい突くようにして踊っているのを見ることができるのは、
まったくファン劇場冥利に尽きるというものだ。

ぼくは古参ではないので三期生までの初期公演を見たことはまったくないのだが、
HKT劇場で感じたような「クラス感」を強く感じることができた。
ステージに立つ16人全員が同期生であることで、
13期生がまとまった一つのクラスのように機能している。
これは昨今の研究生には見られなかった状態で、
その理由はもちろん研究生メンバーが「クラス」を形成するほどの数に満たなかったからだ。
例外的に8期生のパージされた以降の9期生にだけ、
わずかに「クラス感」を感じることができたが、
横山の単独昇格、森の辞退で大きくこれが崩れた。
12期生もチーム4への昇格組によって二つに分断されてしまった。
3期生以降AKBに「クラス感」が育ちにくかった原因は、
研究生がいつまでも正規メンバーの穴埋め要員としての待遇しか受けなかったからだ。
せっかく育ちはじめていた同期の絆ともいうべき「クラス感」が、
正規メンバーの補充という口実の元にあっさりと崩されてしてしまう。
チーム4には12期生の田野岩田高橋ではなく残りの10期11期生を入れるべきだったと強くおもう。

しかし今日の公演やMCを見るかぎりでは、
13期生たちはかつてのオリメンのような、
もしくはHKTなど新グループの一期生のような、
同期生のつながりを感じることができた。

積極的に、誰にも遠慮することなくのびのびとMCを回し、
岩立、茂木、光宗、大島など複数のメンバーが会話をつないでいく。
まるでクラスメイトのように生き生きと話している。
そこには13期生というひとつのまとまったチームの姿を見ることができた。

今後の展開がどうなっていくのか非常に興味深いが、
13期生が他チームの「穴埋め要員」ではなく、
このままひとつの単体チームとして成長していけば理想だと感じた。
ムチャ振り企画やリバイバルのA5th公演など、
確かに13期生には新しいチャンスの波が来ている。
「新生チームA」のようなサプライズがあれば楽しいのだが。

さて、
肝心の今日の公演の感想を最後に。

衝撃を受けたのは「ウッホウッホホ」で秋元ポジに入った茂木。
秋元以外で本気でゴリラになれる子をはじめて見た。
同アンダーだった阿部にはこんな本気のゴリラはできない。
一見すると美少女かと思いきや、
見まごう事なき本物のゴリラの姿がそこにはあった。

全体曲はいまいちだったが、
ユニットはどれもよかった。
噂どおり相笠は目に付く。

優子ポジの大島は14歳。
なんと優子の10歳下だという。

潔癖症でペットボトルの回しのみもできない相笠は、
大量のオタとの握手会をどうこなすのか興味深かった。
卒倒するんじゃないだろうか。

自己紹介MCではまだキャッチフレーズがなく、
いまいち記憶に残らない子もいた。
メディア露出などがない分、
時間の限られたMCだけでは個々人の性格がつかみにくいと感じた。
しかし、
これまでの研究生にはなかった魅力が、
確かに13期生にはある。

定期的に彼女たちの成長を目撃するためにも、
この時期に13期生の『RESET』公演を見ておくことをお勧めしたい。
プロフィール

ちょんつん

Author:ちょんつん
Evangeline07をフォローしましょう

カテゴリ
最新コメント
最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。